ヤマトのBGMの、じゃないよw
真面目に追憶するはめになったので、ちょっと書き留めておこうと
思ったのだ。
あ、そうだ。
タイトルには無関係なのですが(^^;)
「いっせーのせ!」企画への皆様のコメント。ありがとうございます〜(^^)♪
少しでも楽しんでいただけて幸甚であります。
ERIは初回からどうも「OWARAI」でやってますが、次は何だか難しそうなお題(『羅針盤』)なので、どうしてやろうかと考え中〜〜〜。
それと…
参加者の皆様が丁寧に参加作品へそれぞれリンクを貼ってらっしゃるのに対して
ERIはそれをやってません(^^;)無精なもので、つい。申し訳ない。
その手間をかけての、楽しい祭り参加…だとは思うのですが
負担を増やしてしまうときっと続かないので、最初にポトスちゃんにその旨言い訳しておきました……
なので…
これから参加してみようかな、って方も
出来る範囲で参加できれば良いんじゃないかな、ってことで
リンクは出来る人だけ、って感じで行かせて下さいましまし。
号泣してお願い申し上げまする〜(^^;)
で。
「追憶」はつづきのページへ。
27年前に亡くなった、父の話です……
[8回]
あるお友達のお嬢さんが、都立国立高校へ入られたのがきっかけだったなあ。
私の覚えている父の最後の就職先が、国高だったので
「何かウチの父にまつわるものがないか、探して欲しい」…というような
お願いをしておいたんですね。
そんな無茶振りに友達は答えてくれ、
なんと、当時のPTA会報のコピーを探し出して送ってくれたのです。
父が、音楽室でえらそうにふんぞり返っている小さな写真が幾つか載っていました。
父が書いた記事もいくつかありました。
PTA会報誌の年号を見ると1980年とか1982年とかです。
丁度私が高校生くらいの頃に書かれたものでした。
中でも、国立高校の第九合唱祭(なんかもう38年続いている伝統らしい)が
当時の音楽教諭であった父の発案で起こされたものだったとは
私も、送ってもらったこのPTA会報紙を見て、初めて知りました。
プロのオーケストラが演奏し国高生徒が合唱をすると言う、ふつーの「合唱祭」ではない
なんか大仰な祭り。
父は当時、テノールで歌ったり指揮もしていたらしいです…本人の談、覚えています。
父が率いた当時の国立高校の第九合唱祭は話題になりレコードにもなっていたらしく。
深緑色のジャケットのそれを、父が母へ誇らしそうに渡したんでしょう…
母が渋い顔をして「見栄っ張りなんだから」とだけ言ったのを
覚えています。そのレコード、もうプレイヤーが無いので再生できませんが
まだ家にあります。
(何か特殊な機器を使って再生出来るのかもしれませんが、そんな手間かけるのは
めんどくさい)^^;
母もオーケストラをバックに父といっしょに歌っていた時期があったので
国高へ練習しに、いっしょに連れて行ってもらった事も思い出しました…
何かの研修で、山梨へ行った時、私も母と同行したことを思い出しました。
それが、私が小学校へ入る前でしたから、丁度合唱祭の試み自体が軌道に乗り始めた頃だったのかもしれません。
父の存在は、実ははっきり言うと私にとって
大して重要でもないものでした。
私が5つ6つの頃には浮気してばかりで家に居着かず
7つで新しい女のところへ出て行ってしまった人だし。
実を言うと、はっきりと顔すら覚えていない、というのが本当で。
父にかまってもらった記憶は数えるほどで
夏のある日、5歳の頃、市民プールで「飛び込み」を教えてもらった(というか。
出来ないとダメだ、みたいなことを言われてやらされたw)こととか
雨の中、父の黒いセドリックに乗ってディズニー映画を観に連れて行ってもらったこととか
(その実映画はどこでもやっていなくて、私は白いレースのかかった車の座席で買ってもらった塗り絵をしながら、父がどこかへ行って戻って来るまで待っていた…って顛末なんだが)
ドイツから帰ってくる父を、羽田空港へ何度も母と迎えに行った事とか…
大きくなって、
父母の離婚の理由を聞かされて初めて、
母が父を「ろくでもない人」呼ばわりする理由が分かって。
母の味方だった私は、当然父を批判するようになって…
父が在任中に癌で入院したと聞いた時は
お見舞いに行くつもりだったのに素直になれず
病室で、父と父の後妻を罵倒し、あんたは癌でもう助からない、自業自得だ…と
言い放って。
父の葬儀を取り仕切った叔父は
「あいつを呼ぶと兄貴の葬式が台無しになる」と言って、
私に葬儀の日取りを教えなかったくらい。
その葬儀は音楽葬といって
合唱祭に参加した大勢の生徒や関係者で大変素晴らしい物だったらしく。
地元の新聞にも載ったのだとか、…そんなことを後で母から聞きました。
父の合唱祭があれから何十年も続いていることや
驚くほど多くの生徒や保護者に支持され慕われていた事を思うと
娘としては複雑な気分。
「うちの父は、皆さんが思っているほど立派な男じゃありません。本当は浮気性で見栄っ張りで嘘つきで、子どもの事もほったらかしで、非道い父親なんです」と、当時の私はバラしてやりたくて仕方がなくて。
母は、父の悪口をよく言っていた…というわけではないんですが
事実を事実として聞くにつけ、私の中で「我が父親ながら、なんてヤツだ」と
そう思う気持ちが肥大したんでしょうねえ。
父を慕い、支持している人たちの抱いている美しい父の想い出を
ぶちこわしてやりたい、と思ってばかりいました。
それは多分、「お父さんなのに」お父さんらしい事を何一つせず母を捨て娘たちを捨て
他所の子どもたちにいい顔をして慕われていたという、見栄っ張りな父への嫉妬?だったのかもしれません。
娘と同じ年頃の、大勢の高校生たちに慕われていた父。
なのに、自分の娘と妻の事は切り捨てていた父。
それが、どうして「いい人」「良い教師」として支持されるのか。
そんなの、理不尽だ…
そう思っていたんでしょうねえ。
宇宙戦艦ヤマト「復活篇」を観たとき、
古代進が妻と娘を放り出して宇宙を放浪しているという設定に思わず苦笑い…
古代の娘美雪が「お父さんなんて」と「あのヤマトの古代進」を拒絶する言動を取っていたのを思い出しまして(^^;)
妙に親近感を持った、…というのも、懐かしい話です。
古代君と違って父は私が二十歳の時にとっとと死んでしまったのですけどね…
国立高校の、伝統の第九の合唱祭は
父が音楽人として生きていたひとつの証。
ろくでもない男だと思っていた父の、世の中に見せていた別の顔。
私には計り知れない存在であった父が、生きていた証のひとつだった。
自分が父の死んだ年齢になって、初めてそれを知った…という、
なんかフクザツな出来事でした。
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COMMENT
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(突っ込むとこはそこか、という話はあるが)
LPが主だけど、たぶん普通のSPも再生できると思う。
うちだけじゃなくて周りには持ってる人、多い。
一時期、替え針が生産中止になって困ったけど
それも別のところから再発されるようになり
現在でも、プレーヤーというものは現役です。
うちのはベルト替えないと動かないのですが
機会があったら替えるつもり。
そうなったら、再生・録音できるから
お手伝い申します。(いつになるかわからんが)