009の神山版映画、のベースになったのは一応……「石ノ森章太郎のマンガ」なのですが、サイボーグ009という作品は、実はもう数年前に完結しています。
青い防護服に赤いマフラーの009たちの物語が、最後の闘いに赴く場面まで、一応アニメにもなっている。
でも、その後の一番苦しい場面の連続は、まだ映像作品にはなっていないんですが……
(なってない、というより、できない、のだろう)
作者は30年かかっても「神々の闘い」編を完成させることなく亡くなりました。
ご子息がアイデアメモを引き継いで、14年後に小説として完成させました。
その内容。
普通に、賛否両論あるんだろうなあ、と思います……
……今回の映画版ほどの救いもない完結、なんだもの。
映画を観て、原作にはない「天使の化石」というものを見て。
あれは、神山監督なりの優しさだったのだなあ、などとも思ったERIであります………
小説版の009は、あんまり売れてない(とかいっちゃったらホンット、失礼だけど)しね。
中身もホント、かなり最後の方は惨たらしくて、キャラ萌えだったら耐えられません。
ヤマトで言ったら、「さらば」みたいな終わり方なんですよ。
「さらば」より酷い。
どうしてそこまで彼らを苛むことができるんだと、
あんなのは撤回してくれと、
陳情したい気持ちに駆られます。
読んでてホント、苦しいです……
(キャラのファンの方は、読まない方がいい、とすら思う、マジで)
その上、誰も感謝する人すらいないような、その中での全員の犠牲。
「さらば」みたいにね、ヤマトが(テレサ込みだけど)勝った、って人類に感謝されるような終わり方はしないんですよ。
けど、あの闘いは作者自身の闘いだったと、そう思えば、
賛否両論……などという俗っぽい括り方は絶対に出来ない。
最後まで見届けなくてはならない、って、そういう気持ちになる。
報われなくても、誰にも感謝されなくても、
あの闘いを最後まで戦った00ナンバーサイボーグたちのことを。
あの凄惨なラストに、誰も異論を唱えなかったのは(賛否両論と言われつつも、酷評はされていないんですよね、小説版は)、しかるべき理由があるからなんだと、私は(私も)思う……
その辺をまた、「つづき」につらつら書きます。
で、009に関する記事は、これで一応おしまいにするつもりw。
[3回]
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ここから「つづき」です
そうそう、映画版のノベライズにまで手を出してみた。
で、「難解だ〜」と言われていた諸々や、「しっくりこない」と感じた人が多かったギルモア博士の態度とかにもちゃんと説明が付けられて設定されてたことが分かりました(笑)。
まあ、経った時間を考えれば自然な成り行きの設定ばかりなんですけど、どうしても009というと、平成版のアニメを想起する人が多いようで、その辺しか知らないとピンとこなかったんだろうなあ、っていうのはしょうがないかな。
(特に、「超銀河伝説」は、あの頃流行ってた松本アニメに対抗するために(w)宇宙へ行かせて、しかも死んだはずの004が復活するという例えば某ヤマトそのまんまの展開をはずかしげも無くやらかし…しかも、少年マンガ風な、愛と友情と努力のベタな展開で終わったんで、なおさら……^^;)
ま、ちょっと辛口意見を言えばw
映画の筋。
「観る人は全員ノベライズ読んでる」みたいに、ノベライズでの事前告知に頼って展開してた、って感がちょっと否めません(苦笑)。
で、小説版の完結編。
……神山版も、これをかなり意識してるのが分かります。
ラストなんか解釈一緒ですしね。
さて…
どーしてERIは映画のラスト、小説版完結編のラストに惹かれるのか…って考えました。
人の手によって作られた、人ならざる者である彼らの。
神と呼ばれる存在からすれば、ひどく卑小なその命をかけた「抗い」。
そのことにどうして、共感し祈りにも似たエールを送りたいなどと思えたのか………。
石ノ森作品は、
あの見ようによってはまるまっこい、いかにも児童マンガの域を出ない描画の中で、驚くほど深遠なテーマが扱われることに昔からどーしても戸惑いを拭いきれませんでした。
あれがものすごい劇画調だったら、多分見るに耐えない、のかもしれないからなんだろうなあ。
真面目に訴えかけ過ぎて苦しくなるだろうし。
だから、神山版が劇画調の絵で描くために、小説版そのものではなく、もうちょっと違う方向へ行ったのはよかったんじゃないか、そうも思う。
犠牲の数も抑えたし(笑)
映画のラスト、月の裏側の天使の化石の脚が一本、無いように見えたんだけど(ERIの気のせいかも知んないんだけど(^^;)、
最後にフランソワーズが言ってた「天使の化石とは、彼の声を聞き、自らを犠牲にすることで正義をなそうとした名も無き者たちのモニュメントだったんじゃないのかな」…という言葉に照らせば、
あれは、宇宙空間で散ったジョーとジェットのモニュメント、なんだろうな。
フランソワーズのセーフハウスの壁にあったものも同じような意味で。
けど、ひとりにつき一つの化石があるわけではなく。
最後のシーンで、フランソワーズの見ているジョーは、最初の方でジョーが見ていたトモエと同じで、実際はジョーは存在しないと考えてもいいのかもしれません。
ヴェネツィアに到着したグレートもピュンマもジェットも、水の上に影の無い姿として出て来たし…
でも、最終的に影を持つ実体として、ギルモアたちと合流する。
彼らの抗いを、「神」つまり「彼」は讃えて認め、
彼らが生きた証として「天使の化石と言うモニュメント」にして残した……と、
そういう意味だったんだろうか、とも取れますね。
こういう漠然とした解釈は、好き嫌いが大きく別れますがw。
分かりにくいか(笑)、やっぱ^^;
009という作品は、このよーに「どうやっても太刀打ち出来ない敵に果敢に立ち向かって、ボロボロになっても非人間的な体にされても頑張って、けれど最終的には消える」という終わり方をするわけですね。
その流れは、ガチなわけです。
悲しいなあ、切ないなあ、……って思いますよねえ。
でも、その「抗って諦めずに闘い続ける」っていうことそのものが、あの作品のメインテーマでした。
正直、後味かなりよくないです(苦笑)。
まゆつばなラストシーンを取ってつけたように置いたのは、そのあまりの読後感の悪さを緩和するため、だけですよねきっと。
だけど、小説版完結編を読むと、どうしてそうなったのかが分かるわけ。
作者が本当にそこを意図したかどうかは、もはや「神」のみぞ知る、ですが(w)。
遺志を引き継いで完結編を完成させたご子息は、作者自身の闘いをそばで見ていた。
60という若さで亡くなるまで、石ノ森章太郎さんは癌と闘い続けたわけです。
邪鬼にやられて体のあちこちを失い、改造に次ぐ改造で人間らしさを失って行ったのは、00ナンバーサイボーグたちだけじゃなく、作者自身も、だった。
その試練を投げかけたのは、例えば日本人なら日本人の宗教観に根付いた「神々」。
国の違いによって「神」の姿はさまざまですから、完結編には色んな「神々」の姿が巨大怪獣みたいになって現れる。
それにいちいち立ち向かって行って、やられちゃあ治して、また闘い、を繰り返すんですね、完結編の最終章では。
で、最終的にその敵たる「神々」っていうのは、異次元から来た星人、みたいなもんなんですが、結局001から009、ギルモア博士に至る全員の犠牲があってようやく撃退(?)できた形になる。
小説版には天使の化石は出てこないけど、
その「抗い」を碑として残そうとしてくれたのが神山監督のその発想であり
あの映画だったんじゃないかなと、ERIは勝手に考えてますが。
蛇足ですが…
癌と闘って、幾度も摘出手術をして、
これでもかという治療の末に死んで行った人を、
間近に見たことはありますか。
ERIの父がそうでした。
ただ父は、最後には抗がん剤の副作用で苦しむ闘いよりも死を選んだ人でしたが。
しかしその父の抗い様を思い出し、その姿と、作者の石ノ森章太郎さんの抗い様とが、どうしてもダブって浮かんで来てしまって。
009の物語、という形を借りて、その闘いを見ているような気になってしまいまして…………
どうも涙腺が緩くなってしまう、ってわけだったんです。
…はい。
そして、石ノ森章太郎さんは、ERIにとってはある意味特別なマンガ家さんでした。
絵の師匠、でもありますし、文章の師匠でもあるんですよ(勝手に自分でそう思ってるだけだけどw)
ひとめお目にかかりたい、と中学生の時からずっと思っていたのに、それが叶わなかった方でした。
手塚治虫さん、松本零士さんには投稿漫画やイラストを見て頂いたことがあるんですけど、一番見て欲しかったのは石ノ森先生で、ある時期には絶対アシスタントになるんだ、なんて思ってたこともあったほど(笑)。
ある意味、父よりも身近な存在でありました……
てなわけで、
最後は関係ないERIの昔話にスライドして誤摩化した009完結編の感想でしたが。
「だから是非映画行ってみて」だの「小説買って読んでみそ?」とかってならないのはご愛嬌(笑)。
命ある限り諦めずに闘う、っていう事柄に共感出来る人なら、まあ観ても(読んでも)わかるんじゃね?くらいな感想で、終わりたいと思います………^^;
お粗末様。
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COMMENT
No Title
でも00ナンバーたちが複数で存在しているのはなぜなのか、たった一人の超人でもいいはずですよね。なのにそれぞれの特別な性能のあるサイボーグの集団です。石ノ森先生ははっきりした意図をもってらしたのか?
作品のどこかに答えはあるのかしら…?
こういう作品を世に問える素地がまだこの社会にあるのはうれしいです。
Re:No Title
神様、ねえ…。
ERI自身は、宗教にこだわらず「神様ってのはいるんじゃないか」と思ってます。
どちらかというと、八百万の神…という和風ちっくな神様ではなく、世界史や生物学や人類学みたいなものからの裏付けが取り易い、キリスト教圏の神様っぽいものが次元の違うどこかにいるんじゃないか、って気はしています。
(なんでかっていうと、現代科学と多少相容れる神様感、っていうのはホトケ様じゃない感じがするんで^^;)←かなりいい加減
で、人それぞれに「その人の都合」があるように、神様にも「人間とは関係なく神様の都合がある」んじゃないか、っていうのも感じます。
いつでも人間に取って都合がいい存在だとは思ってなくて。
勝手なおねだりばっかりされて、神様も随分人間には迷惑してるんじゃないかなあ、などとも思うのであります。
まあそれは、マンガやアニメの中のお話に限らず、リアルでもそう思うんですけど…
万物の創造主かもしれないけど、いつでも味方、ってわけじゃない。
人間からお供え物をもらってるようじゃ、神様じゃない……
自らの都合で存在し、自らの都合いかんによっては人間の存在を無視することもある。
ただ、祈りや言葉はきっと、通じるんじゃないかな、と。
というのは、この伝達手段を創造したのもまた、神という存在だから。
なーんて、そうやって考えてくとSFもまだまだ、色んな物語が作れそうだなあ、なんて思います。
徒然。
No Title
人間の創作ってどんな人もどんなジャンルにも限らず、神の視点の一つを一時的に持ち得ることが許されていてそこから始まるのかもしれませんね。大げさかも?失礼しましたー。