手放しで絶賛してるみたいな印象を与えてるみたいですが(w)
いや、そう言うわけじゃなくて。
難解ですよ。
それは予告しときます(笑)。
アニメ版だけしか観てない人には「なんじゃこりゃ?」な展開に「ハテナ?」なラストです。
まず、ジェットの背景(アメリカ国家安全保証局勤務、確か18歳設定だったはずなんですけど…? しかもアメリカ人がアメリカでタバコ吸う吸う・w…でもって、結局政府ぐるみの陰謀に巻き込まれて最後はトカゲのシッポ切り、の憂き目に遭う)……という展開自体が小難しいので、ポカンと見てたら何がなんだか解りません(苦笑)。
で、ジョーの背景も解りにくいです。
加齢しないサイボーグの彼が、同じ姿のまま生き続けているという矛盾をどうにかするために、ジョーは3年ごとに記憶をリセットされて、永遠の高校生として生きている、って設定。
それをやってるのはギルモア博士で、監視役がフランソワーズなんだけどね。
これは物語のキーにもなる設定なんだけど、
でもさ(w) ポケッと見てると「へあ?」ってなります(笑)。
クラスメイトの「トモエ」ちゃんって言うのが出てきますが、あれは脳に負荷をかけられてるジョーが無意識に見てしまっているフランソワーズの影、とでも言うんでしょうか。
で、この二つの難解な設定と、「サイボーグ戦士たちの闘いは善か悪か」みたいな、全人類的問いかけが同時並行で話が進んでく、と。
その全人類的命題のモチーフになってるのが、「聖書の記述」です。
あああ、もうわからないだしょ!!(笑)
ただ、根強い原作ファンには、
ああ、なるほど「神々の闘い」を神山監督が料理するとああなるんだね、っていうのは解る。
そしてさらに、聖書を知っていると解釈の幅が広がってさらに面白いと感じる。
神山監督の偉いなあ、と思うところは、原作の石ノ森章太郎先生(こちらは神山監督よりずっと聖書に関して造詣が深い、蘊蓄がある、それはガチ)の意図しておられたことを、網羅しつつしかし凌駕することはしない……という、深謀な完成度に作品を止めたところ……。
(なんちって、もはやこの感想も難解?w)
原作009の「神々との闘い編」がそもそも難解だ……というのは、有名な話。
実はERIがあれを読んだのは、高校生のころだった。
何度か書いてるので知ってる人も多いと思いますが、私は普段から親の要求で聖書を読まされていたんですよね…。一体、何度全体を繰り返して読んだことか…愛読書でもないのに(笑)。
そんな私にしてみると、009たちが「聖書の神」とおぼしきものたちと闘うあの話は、難解……というよりは「よくぞまあ、挑んでくれた」とでもいうような、なんか胸がスカッとする話だったんです。
何で中断してしまったのか、……そりゃまあ、あのまま行ったら、
難解だって言うのももちろんあるだろうけど、
「神=造物主」に対して「人の創ったもの」の彼らが勝てるはずがありましょうか、で終わっちゃうよねえ?
答え、出てるよねえ。っていうことだからだよね。
だから、「神」と同じ土俵に上がって闘う、ってとこまで彼らを変えて行かなくちゃ無理だ。なるほど、「神々との闘い」編以降、00ナンバーたちは色々なチューンナップを個々に受けて行く様子が描かれるようになります。
(けど、それが彼ら個人として、幸せなのかそうでないのか……と考えると、その答えも明白。チューンナップ続けるのもやり方を選ばないと……って石ノ森先生ご自身がなって行ったのだと思う……)
だけど、ああ、神からしてみれば矮小で卑小で、利己的で不完全な人間だけど、各々の「幸せに生きたい」という願いを尊重することは罪なのだろうか。
「絶対的な善であるらしい神」が、ちっぽけな人間たちを「いらない、不出来」と看做して滅ぼすことに抗うのは「悪」なのだろうか。
人間ですらないサイボーグたちが、その闘いを戦うことは、「善」なのか「悪」なのか。
それが、「神々との闘い編」のコンセプト、だった。
なんとまあ、石ノ森先生はとんでもない挑戦を(しかもマンガで)始めちゃったんだろう、って思ったものです………。
まあ、思想的なところは置いとくとしても、聖書そのものの各エピソードも、何度もハリウッドで映画化されるくらいスペクタクルな上にSFチックだから、マンガだけじゃなくSFバトルアニメ得意のジャパニメーションがモチーフにしない方がおかしい、っていうほどの題材ではあります。だけど、日本アニメではエヴァあたりでやっと追いついた感じ。
そこを、1960年代に すでにマンガにもってきた石ノ森先生は、すごいとしか言いようがない。
ただ確かにあの当時の日本人のスタンダードでは、発想自体が追いつかなかったろう、 と。
さて、009のストーリーを難解にしてるのは、上に書いた「神」の定義(つか、受け止め方)が人によって違う、ってことにも原因があります。
石ノ森章太郎先生が意図した「神」とは、おそらく旧約聖書の「神」がモチーフ。
で、一体旧約聖書の神ってのはどんな存在なのか、ってことですが……
聖書には、旧約聖書と新約聖書、と(言い方が違うものも多々あるようですが、大まかに分けると書かれた時代をもとに、この2つに分かれます)2つ、あります。
こんな蘊蓄は読んでも誰も楽しくないので詳細は省きますが(w)、
聖書に出てくる「神」っていうのは、キリストじゃなくてキリストを含めたすべての存在を創った「造物主」。
人類を創造し、居心地のいい住処を与えつつ、同時に試練も与えてそれをクリアできなければ、簡単に絶滅させることもいとわないのが、聖書に出てくる「神」=「造物主」。
決して慈悲深いだけの「やさしい神さま」じゃない、っていうのがミソ。いやむしろ、かなり無慈悲で残酷でさえあります。
旧約聖書に出てくるだけでも、大洪水で当時の人類を8人以外全部抹殺、ソドムとゴモラの都市を天からの火で全滅させる。崇拝者の忠誠を試すために、病気にしたり親族を殺したり果てはクジラに飲ませたり。「我が民」と呼ぶ国民全体を、敵国に奴隷として何十年もつながれるままにしてみたり(その国民は今でも決まった国土を持たない)……
ただその一方で、聖書自体はすごく真面目に信心深い人たちの心の拠り所にもなってるわけじゃないですか。キリスト教とか教会とか言ったら、もうお人好しな人たちの集まり、っていうか。
右の頬をぶたれたら左の頬も差し出しなさい、っていう?
この、一見「善」に見える思想の根底が実は「裁きの日には全人類の大半を抹殺することもいとわない神」である(旧約聖書の「神」と、新約聖書の「父」とは別物だと言う説もあるようですが、同じだと見るのが普通です。キリストさんは慈悲深いですが、その彼を遣わした父は、実はおっかない造物主だと。)という、すごくキモチの悪いパラドックス。
……これが、「聖書」と「聖書の神」の本質なんですが、
石ノ森先生が00ナンバーたちに課したのは、その「神」との闘いだったわけです。
だからね、なんかスカッとしたのよ。
「全能なる神」の「善」=決して優しいだけじゃなく、天変地異で人類を滅ぼす事もいとわない厳しい造物主」への抵抗、という、「一見バチアタリですらある」ストーリー。
そんな存在に敵うわけがないと思いながら、私は応援してた……009たちを。石ノ森先生を。
え? 難解? ああうう(笑)。
まあ、でも。
ひとつだけ、自分的に解釈して満足してるものがあるんだな。
映画全編を通して出てくる「彼の声」。
新約にもあちこちに出てくる、『始めに声ありき、言葉は「彼」なりき』って出だし。
聖書の解釈で言うと、「言葉」と言われているのは「父(神)と子(キリスト)と聖霊」のうち、キリストを指しているのですが(「神」のスポークスマンとして地上に派遣されたのが「子=キリスト」だという解釈が通説)その解釈で行くとわやくちゃになるのでちょっと忘れて〜。
009という物語の生みの親、つまり造物主は、石ノ森章太郎先生。
そして、彼の声がなければ、あの物語は始まらずサイボーグたちも誕生しなかった。
「彼の声」は、石ノ森章太郎そのひとだったんではないか。
その声に動かされ、物語が進み。
けれど、世界や人類の進む先は、「彼」の声を聞くこともなく自滅へと向かっている。
それを食い止めるための闘いを、「彼」は00ナンバーたちに「願いとして」託した、と。
「絶対的な善としての造物主」という「彼」も別線として主題にあるのでしょうが、副次的な意味合いとして「彼の声」というのは石ノ森先生の声でもあったんじゃないだろうか。
それに勝利したか否かは、映画のラストシーンを見ても解らないようになっている。
月の裏側に残された巨大な天使の化石が何を意味するのか、ってのは、きっとご子息の書かれた「完結編」の何かと関係がある、のかもしれない……
その辺は、神山監督の裁量なんだろうと思う。
全部を、神山監督が理屈をつけておしまいにしちゃうわけには行かないだろうし。
「わからない、でいいじゃないか」。
だって、実際に人類がどこへ向かうのかなんて、まだ解らないのだから。
けど、運命に抗うことに、意味がないとは思えない……
やっぱそれが、この009劇場版の言いたいことの(一番簡単な項目)のような気がする。
ああ、やっぱりなにをどう書いても、難解(笑)………。
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